改訂版全共闘以後 pdf無料ダウンロード

改訂版全共闘以後

strong>本, 外山恒一

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によって 外山恒一
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内容紹介 1968年の全共闘から50年。1972年の連合赤軍事件を境に学生運動は急速に退潮し、その後は「シラケでバブルでオタクでサブカル」の時代――。そんな歴史認識は間違っている!70年代以降も若者たちの社会運動・学生運動は、ほぼ10年おきに高揚していた。ただ、それらを一貫した視点で記述した「通史」が存在せず、これまで不可視になっていたのである。全共闘以後50年の歴史を新しく塗りかえる著者渾身の原稿用紙1000枚超の大冊!絓秀実氏、推薦。菅野完氏、解説。 序章“68年”という前史 第1章“80年安保”とその裏面 第2章85年の断絶 第3章ドブネズミたちの反乱 第4章まったく新しい戦争 第5章熱く交流レボリューション 第6章ロスジェネ論壇とその周辺 終章3・11以後のドブネズミたち 解説菅野 完 「外山恒一は、全共闘以後の時代が持ちえた抜群の活動家である。外山は左翼にありがちな挫折を知らない。困難に直面しても、その聡明さとユーモアと決断で、いとも簡単にのりこえていく。外山は、孤立を求めて連帯を恐れない。外山はきわめて優秀な歴史家でもある。その抜群のフットワークと公正な観察力を武器に、誰も知らない現代史の現場に行き、謙虚に聞き、記述しつづけるのだ。それは、アカデミズムの研究者など及びもつかぬアクチュアリティーを持っている。しかも、きわめて分かりやすく、面白い。以上のことは、外山の「ファシズム」思想に違和感を抱いている者も認めるほかはない、厳然たる事実である。外山恒一の思想と行動の集大成とも言える本書は、3・11を経て、ヘイトとポリコレで奇妙な行き詰まりの様相を呈している今日の運動状況において、〈人民の敵〉による、人民のための、革命の書である」――絓 秀実(文芸批評家) ※この書籍は2018年9月に刊行した『全共闘以後』の改訂版です。 内容(「BOOK」データベースより) 1968年の全共闘から50年。1972年の連合赤軍事件を境に学生運動は退潮し、その後は「シラケでバブルでオタクでサブカル」の時代―。そんな歴史認識は間違っている!全共闘以後50年の歴史を全く新しく塗りかえる著者渾身の原稿用紙1000枚超の大冊!いま初めて描かれる、若者たちの社会運動50年“通史” 著者について 1970年生まれ。革命家。「九州ファシスト党・我々団」総統。80年代後半、福岡・鹿児島の高校で学校当局との衝突を繰り返し、各地の“戦う中高生"を組織した「全国高校生会議」の主要活動家の1人となる。89年、『ぼくの高校退学宣言』で単行本デビュー。文筆活動と、“異端的極左活動家"として90年代を過ごした末、02年に逮捕され、獄中でファシズム転向。07年に都知事選に出馬、「政府転覆」を呼びかける過激な政見放送がネット上で大ブームを巻き起こした。著書に『青いムーブメント』、『良いテロリストのための教科書』など。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 外山/恒一 1970年生まれ。革命家。「九州ファシスト党・我々団」総統。80年代後半、福岡・鹿児島の高校で学校当局との衝突を繰り返し、各地の“戦う中高生”を組織した「全国高校生会議」の主要活動家の1人となる。89年、『ぼくの高校退学宣言』で単行本デビュー。文筆活動に励み、“異端的極左活動家”として90年代を過ごした末、02年に逮捕され、獄中でファシズム転向。07年に都知事選に出馬、「政府転覆」を呼びかける過激な政見放送がネット上で大ブームを巻き起こした(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
改訂版全共闘以後を読んだ後、読者のコメントの下に見つけるでしょう。 参考までにご検討ください。
2018年は「1968年」から半世紀、ということで、68年本が各種刊行されたが、流行やノスタルジアとは無関係に書き続けられたスガ秀実の一連の著作を越えるものは出なかったようだ…と思いきや、「ニッポンの68年」の「その後」を問う、この大著があった。この本が描いているのは通俗的歴史観を疑わない80、90年代若者文化史ならば枝葉末節として切り捨てられてしまう領域である。クラブ・カルチャーなりオタク文化なりに依拠する80、90年代語りが支配的になって久しく、そのような歴史化への違和感は僕にもあったが、それは偽史である、と断言する勇気は無かった。本来ならば、(近年は本名での著作が注目されている)鹿島拾市が書くべきものを自分が代行して書いた、と外山は書いているが、外山は通俗的・図式的歴史観に遠慮する必要のない立場を(結果的に)確保した活動家であるだけではなく、『週刊読書人』での運動経験者聞き取り連載の開始からも判るように、外山には在野の歴史家という側面もある。やはりこれは、無名活動家たちへの丹念な聞き取り作業と資料収集によるアーカイヴ作成をライフワークとする(としか思えない)外山が書いて正解だったのだ。この本、マニア(共産趣味者とか)以外にはどうでもいい情報の集積、としか見ることができない読者もいるだろう。そのような読者は「歴史」の重みとは無縁の人間である。この本に度々名前が登場する人物の中に僕も面識のある人物が一人いる。先日、ある集まりでその人物と同席する機会があり、せっかくなので、その人物に外山のオタク観を訊いてみると、外山のオタクへの認識は野間易道と同レベル、だが「自分には理解のできないもの」を闇雲に潰そうとする野間と違って、外山は自分に害をなさないかぎりは放置する、という答えが返ってきた。この答え(理解できなくても害がなければ放置)を頭に入れたうえで、この本の、ロスジェネ・ブームと反グロの00年代と第二次反原発ブームと反安倍の10年代への記述を読むべきなのかもしれない。ついでに、その人物のブルーハーツ観も訊いてみたのだが、その際に「劣化版ブルーハーツ」的存在の代表格として真っ先に名前が挙がったのがジュンスカことジュンとスカイウォーカーズ(改めて考えるとかなりアナクロな名前である)で、この本でも外山はジュンスカをジュンカスと記し(しかも何の注釈もない)ていて、本当に嫌いだったことが判る。外山は甲本・真島コンビのブルーハーツ解散後の活動を「語る価値なし」と断じている。忌野清志郎に関してもタイマーズ消滅以降の活動に一切触れていない処を見ると、「語る価値なし」と感じていると思われる。僕も「語る価値なし」だと思う。ところで、この本には、80年代のバブリーな小劇場ブームとは無関係にテント演劇を継続させたポスト・アングラ演劇人たちを綴る章もあるのだが、彼らに最も影響を与えているのが唐十郎でも寺山でもなく、佐藤信や津野海太郎らの黒テントだった、というのは、べ平連と新左翼の関係(詳細はスガ秀実『1968年』を参照)を考えると興味深い。この改訂版刊行から8か月ほど経ち、『あいちトリエンナーレ』に反対する若き(超)芸術家たちの対抗運動『なごやトリエンナーレ』が弾圧される事件が発生した。それと同時発生した『表現の不自由・その後』弾圧事件の陰に隠れてしまったのは仕方のないことかもしれないが、「表現の自由を守れ」派からもあたかも不都合な存在であるかのように扱われ、世間からも黙殺されようとしている。なぜこのような事態が起きてしまうのか、考えるためにも読まれるべき書物である。(2019年9月24日、10月18日訂正・加筆)

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